九十九研究所@企業コレクション〜じゅげむ本店

〜企業コレクターの情報ストックブログ〜
<< 過去・現在・未来へと続く人々のことを考えてみるテスト | main | 創造性と現実の間で〜アンディー・ウォーホル >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | -
福沢桃介
 福沢諭吉なら誰でも知っているが、福沢桃介のことはほとんどの人が知らない。 諭吉の次女・ふさの婿である、私は少しながらの憧れを抱いている人物である。私は歴史及び人物を冷淡な目でよく眺めるのだが、桃介氏の生き方に少しながら共感できることが多々あるのだ。あえて自分の主張はさけて、様々な文献を自分なりにストックしておきたい。断片的であるが少しでも彼の駆け抜けた時代背景、生き方を知ってもらい何かしらの思いを抱いていただければ良いと考えます。

九十九@管理人
            福沢桃介

------------------------------------------------------------------------------------------

「鬼才福沢桃介の生涯」 浅利佳一郎 NHK出版 2000年

 桃介、今、在りせば…。巨人福沢諭吉を義父に持ちながら、諭吉に反発し、 独歩の起業家精神を貫き通した電力王・桃介。傲慢と謙虚、冷酷と温厚、山師と篤志家、スキャンダルとロマン、 相反する言動と評価のなか、日本を襲う幾多の経済危機を見事に乗りきってみせた鬼才といわれた男。ミステリアスな生涯を解きあかす。(帯コピーより抜粋)

プロローグ

 かように不景気がこうじてきては、何処を向いても気の滅入る話ばかり。世間一体にまことに陰惨な空気に閉じれれている中に、パッと人心を明るくするような好事好音の望み難いにしても、この節瀕々と伝唱する従業員 の首切り沙汰は、あまりにも悲惨とや言わん。

(中略)

 世間の従業員首切りの振り合いを見ると、永く高給を食み、罷免せられても生活の困らぬものか、または気のきいた人間をやめればよいのを、そういう人間は手放そうとはせずに、下給者で正直な実体者を容赦なくポンポンとやっつける。実体者に気のきいた才物などありはしないが、気がきかないから役には立たぬとするなら、それは大変な見当違いだ。

 才物並みの派手なハキハキした仕事ぶりはようできんが、与えられた事務を分を越えずこつこつと仕上げていく彼等の功績は大層なものだ。 どんな大規模の事業経営も、彼等の地味な黙々たる精勤努力によって、滞りなく 円滑に動いていくのだ。

彼等は後方勤務者として大なる不平もなさそうである。

彼等は偉大な縁の下の力持ちである。

お役に立ったら相当の恩賞あってしかるべきところを、目に立つ働きがないからとて、無用の喰い潰しででもあるかのように、失業地獄の今日、ならべて首にして若干の経費節約でもあるまい。

福沢桃介の著書『桃介夜話』の一節より。

------------------------------------------------------------------------------------------

“相場師から電力王へ”―福沢桃介―

貧乏な家に生まれ、才知と眉目秀麗を認められて福沢諭吉の婿養子になった桃介。約束されたエリートコースを結核で棒に振るが、ハングリー精神を発揮、天下に知られた相場師となる。後年は実業家に転身、電力王と称された。 「天は人の助けざる者を助く」が信条の偽悪家は、始末に負えぬ排金教と評された。しかしその鬼才の屈折人生は一片の痛快さもある。

 福沢桃介は1868年(慶応4年)、武蔵国横見郡荒子村(現埼玉県比企郡吉見町)で、 岩崎紀一・サダ夫妻の次男に生まれた。 六人兄弟だった。田んぼが一反の貧乏所帯。おっとりした婿養子の父は野良仕事に向かず、気丈な母が開いた荒物屋も行き詰まり、能書家の父の特技を生かそうと川越に引っ越して ちょうちん屋になった。金持ちだった岩崎一族などの出資で八十五国立銀行ができ、父は書記になるが、一族の没落で再び貧窮した。

 桃介は神童の誉れ高かったが、ゲタも買えず、小学校に裸足で通った。友達に笑われ「大きくなったら金を儲けて今の貧乏を忘れたいと子供心にもしみじみ思った」。あだ名が「一億」。「一億円の金持ちになるのだ」が口癖だった。

 その才を惜しんで学問を勧める人があり、慶応義塾に入る。福沢諭吉の養子となるきっかけは運動会だった。桃介は眉目秀麗で背が高い。絵のうまい学友にシャツの背中にライオンを描いてもらって、颯爽と駆け回ったから、諭吉婦人の目に止まった。

 洋行を条件に養子縁組。ただし、「諭吉相続の養子にあらず、諭吉の次女お房へ配偶して別家すること」。 諭吉には4人の息子がいた。なぜ養子か分からない。 米国に留学、ニューヨーク州のイーストマン商業学校を4ヶ月で卒業すると、ペンシルバニア鉄道で実務見習い。帰朝後、結婚式を挙げ、北海道炭礦鉄道に入社、 破格の月給百円は恵まれすぎた門出だった。

 ところが6年後に血を吐き結核治療のため辞職した。給料の半分を貯金していたとはいえ大したこことではない。養子の身分で面倒をみてくれとは意地でも言えぬ。思いついたのが株で、北炭の社員で株に詳しい者からイロハを学び才能が開花した。千円の証拠金で始めて一年で儲けが十万円。それからの桃介を「相場師になってしまった」と諭吉は嘆いた。

 二度目の挫折は諭吉も支援した丸三商会の行き詰まりだ。米国の材木商社の下請けで、神戸支店長が弟分の松永安左ェ門。電力の鬼の人生は桃介と深く関わる。破綻原因は東京興信所が 「桃介は相場を好む性質だから、信用できない」と商社に報告。前金を止められ三井銀行が取引を停止。いずれも慶応出身者の血も涙もないやり方に逆上し屈折した。桃介は元上司、井上角五郎の世話で再び北炭に。重役付き支配人待遇で、 ロンドンから日本初の外債100万ポンドを調達、栄達は保証されたが宮仕え には見切りをつけた。銭が全てだった。

 日露戦争後の株式ブームは多くの成り金とまた没落者の山を築いた。その中で桃介はさっさと手仕舞い、(信用取引や先物取引で、未決済の売買約定を転売、買い戻しにより取引を解消すること)、250万円を手にした。天才というほかはない。しかし、段々虚業が嫌になり、「富者に対する反抗心が強く、金持ちになって金持ちを倒してやろうと実業界に発心した」。

 だが根が相場師、企業のビジョンに欠けた。人造肥料、ビール、鉱山、紡績、鉄道と次々に手を出して、ようやく終生の事業は電気だと見定める。ただし福博電気軌道(後の東邦電力)の社長就任は安左ェ門の口説きだった。ソロバンの桃介が「松永のために損をしようと決心した」。

 名古屋電灯の場合、慶応の先輩で三井銀行の名古屋支店長、矢田績が、桃介に経営させたら発展するだろうと口説いて常務にした。これで水力発電の意義に目覚めた。自分の足で探査、木曽川に注目したのは、水力発電に必要な水量、落差の大きさ、消費地に近いなどの条件を全部満たしていたからだ。

 ところが半年で辞任。名古屋財界人の反感に嫌気が差した。だが、水力の夢は捨てず、木曽川に発電所をつくる。各地の電気会社の社長になって、さらに千葉県から代議士に当選、政治力もつけようとした。彼を見直した名古屋電灯から復帰の要望があり、返り咲いて常務、そして社長に。京阪進出の大計をもつが「白昼夢を語る」と株主からも批判が出て頓挫。 別の道を模索した結果、山本常太郎らと大同電力を創立、社長になった。

 他方、名古屋電灯は経営が悪化。桃介は松永に救援を求め東邦電力の設立をみて手を引いた。大同電力は東京電灯、東邦電力、日本電力、宇治川電気とともに五大電力の一角を占めた。

 木曽川の大井発電所は桃介が情熱を注いだ日本初のダム貯水池。

工期半ばに大震災で金融が途絶。背水の陣の彼は、 排日運動が高まる米国で初の民間外債の発行に成功した。

 孤高のジャーナリスト三宅雪嶺が桃介を評して

「何にせよ偽善めかぬところがよい」と書いている。

------------------------------------------------------------------------------------------

●希世の人物評

 桃介は、川上貞奴との公然たる愛人関係が有名だ。

福沢の養子コンプレックスのなせる業ともいう。

貞奴もまた彼の複雑性を理解した。

 彼女は不動尊の信仰あつく、犬山城の対岸に自力で金剛山貞照寺を建立した。これに感じたか桃介も、禅僧、朝比奈宗源に師事しようとした。初対面で「一回、いくらで聞かせてくれますか」。「そんな俗物に、金なんかもらっても話はしない」と怒らせた。平謝りで週一回来てもらうが、法話が佳境に入ると家人を呼びつけ、 ブローカーに電話を命じる。何度かやって、ついに「度し難い」と見放されたという。

 松永安左ェ門が桃介を回顧して

「有り難い先輩だから、力を入れてもらうのは感謝の他ないが、時とするとプイと気が変わって泣かされる事が度々あった」

盟友にしてこの言ありだ。池田成彬は極秘の株売りを桃介に見事見抜かれて驚いた事がある。

「一言にいうと目から鼻に抜けるというか。とにかく非常にすばやいのです。その代わり昨日言った事は今日忘れるというたちです。その点はすっきりしたものです」

 自分が批判される反面、人を見る目は正鵠を射た。その著『財界人物我観』は希世の人物評といわれる。

「人間万事ウソ半分本当半分、もしくは三割ウソ七割本当という程度か」と言いつつ、例えば「大隈重信は実に雄弁であって、演説も座談も上手であったが、人の言う事を面倒くさがって聴かなかった」 「だから偉い人と見られたけれども、本当に胎のなかからこの人のために馬前 に討ち死にしようという人は少なかった」

 また、「金子(直吉)は、婦人の愛情が何処から湧出するかを知らない。従って、俗界に処するには、汚い媒介物が必要だということをご存知ない。・・あらたかな要路の生き神様へしかるべくおさい銭をあげておくべき事を念頭にかけなかった。それが鈴木(商店)没落の最大原因である」

※参考文献・・「20世紀日本の経済人」(日経ビジネス文庫)
「図説 明治の群像296」(学研)


------------------------------------------------------------------------------------------

投資家としての桃介氏

■投資実績

 明治28年、福沢桃介は日清戦争で低迷していた相場が遼東半島の中国返還で終わりをみて、公定歩合が3厘さげられ「戦勝相場」によって上昇気流に入ったとみるや、当時のお金で、貯金額3000円(3000万円)のうち、1000円(1000万円)を投資資金にあて、1000円=今の1000万円くらいをつぎ込み、信用買いを行い、株式初挑戦にて、1年で10万円(今の10億円)に資産を 増やしました。これは100倍で初挑戦としては脅威の結果をのこしました。日清戦争の戦勝相場の後は、一切、株から手を引きました。その時期に株成金になった人はその後の日露戦争に 向かう下げ相場で文無しになった人が大勢いたそうです。しかし、福沢桃介氏は軍事国債などが発行されていた当時の相場には目を向けず、 事業を起こしたとされます。そして、再び、日露戦争後の戦勝相場でもう一回だけ参戦し、250万円(現在の250億円くらい)を手にして、その後、電力会社を起こし、現在の中部電力の母体となる企業を起こしたとされます。以上が一般的な実績の説明ですが、調べますとチョット違うようです。株だけでみると途中で半減しましたが、1000円から10万円、そして250万円と2500倍になっています。明治40年には相場から手を引いたようです。それまでは、会社設立で上場の創業者利益で、大儲けしたようです。大正7年、第1次世界大戦の株式ブームでも一切株取引しませんでした。

■金持ちになるために株取引は必要不可欠

 福沢桃介の戦略には、常に時代の最先端の知識・情報を活用することです。慶応在学中、導入されてまもない簿記の知識を有していたと思われます。わが国に株式会社が創立され間もないころに、銘柄は決算が重要だと述べています。福沢家の婿養子に入る見返りにアメリカ留学を行っています。このころからアメリカの大富豪の富の築き方を研究して、株で成功しようと思っていたのでしょう。

桃介氏の言葉です。

「ロックフェラーは、人は石油でもうけたというけれども、じつに彼の財産は石油株が騰貴 したためにできたのである。すなわち株で勝ったのである。グルードもそのとおりである。その他現在アメリカの富豪といわれているもので、株でもうけたのでないものは一人もないといってよろしいくらいで、商売でもうけたものはいたって少数である。」
 
 現在のトヨタ自動車でさえ、本業の儲けも素晴らしいが、株式という仕組みがあるからこそ何十倍、何百倍、何千倍にも企業価値が高まります。桃介は個人であろうと、企業であろうと株が富を築く原理を見抜いていたようです。そして、金持ちになるためには、株式取引が必要であると述べています。

■銘柄(決算)とタイミング(景気)がすべて

 株は富を生むことを発見した桃介は、病床の中で本格的な実践のための研究をしました。もと兜町の株屋が部下いたので、この男に相場のやり方、秘訣を喋らせました。さらに社内の株式係に同じことをたずねたりして勉強しました。参考書も取寄せ、過去の相場の高低を示す罫線表もつくり丹念に検討しました。株価の高低、会社の内容、重役の人柄、日々発生する内外時事の影響、市場人気の消長 とその表裏に関する機微の動きなど、あらゆる情報を入手して真剣に検討し、結論が出ると果敢に勝負しました。グレアムも驚いてしましますが、株を行うには金融金利を標準に 行いなさいといっています。

 「諸君が金持ちにならんとして、株の売買をせぬのはウソだ。しかし株式の売買について、ここにひとつ諸君に注意しておかなければならぬものがある。余人はともあれ、諸君が株の売買をするには利子を標準とすることを希望する。具体的に言えば、定期預金の利子はつねに五分より七分の間を往来している。五分以下となり、七分以上となったことはまず近来においてない。市中の金融が大緩慢で貸付日日歩が1銭6厘以下に下落したときでも、預金の利子は五分であった。また金融が大逼迫で貸付日歩が3銭、4銭に上がったときでも、預金の利子は7分より上がらなかった。この預金の利子を標準として売買することだ。」

 配当利回りが、定期預金利子より上回れば、「買い」、下回れば「売り」だという事です。財務状態がよい銘柄を薦めています。

 「この株は安全か否かということを考えなければならぬ。郵船、鐘紡、炭鉱、東鉄というような、なるべく基礎の強固なものを選び、基礎の薄弱なものはやらぬがよい。たとえ一時配当が多くとも、基礎の薄弱な会社は、会社全体がつぶれてしまえば大損になる。比較的強固だと思っても、なお不安だと思ったら、金を銀行に預けて寝ておればよい。」

 「金を使う程度」すなわち、投資金額についても述べている。
「これは諸君の各自によって定まる問題であるから、具体的にこれこれというわけには行かぬが、要するに、これに全力をあげてはいかぬ。借金してかかるのはもちろんいかぬ」「日露戦争後において株式の売買に失敗し、事業で倒れたものの多くは銀行から金を借りた人である。」

■投資のタイミングの重要性についても述べています。

「株価の変動には何らの法則もないように見えるが、実は不変の真理がある。その真理とは景気の変動だ。景気と株価について検討すべきである。」「少なくとも相場で儲けようというのであれば、3年に1回の割合で到来する波に注意する必要がある。相場道に徹した真の投資家は、いわゆる大きな相場の波だけを注目している。何年かに一度しかやってこない好機を狙っているのだ。したがって相場師というものは大相場を見損なったらそれこそ問題である」

ことばを変えて述べています。

 「相場というものは桃介如き微力でなかなか動くものではない。天下の大勢が動かしている。 我々はその波をうまく泳げばよいのである。順波(上げ相場)には乗り逆波(下げ相場)には逃げる。だから百戦百勝して傷つかないのである。」「相場で勝つには間(ま)というものが大切である」と言っています。売り買いに間をいれポジションを整理し、戦略を練り直しなさいということでしょう。

■桃介の投資ノウハウ

 損切りの重要性についても述べています。

「活殺自在ということが大切である。事情が変わったと思ったらグズグズしないで損をしてもサッと相場から手を引くべきだ。投げ売りを上手にやって、男らしく再起の日を待つべきだ。男らしく進退を明らかにすること。これこそ相場で勝つ最大のコツだ」

 彼の言葉に「ミミズも雲を得れば龍になる」というのがあります。

 低位銘柄も景気しだいで大化することを述べていると思われます。

「腹八分目主義。買い思惑通りに相場が上昇しても深追いはせず、天井圏に入ったと判断したら見切りよくすべての買い玉、手持ち株を売却する」

 弟分の松永安左ェ門との会話です。

 松永「横浜電鉄、どうしたの?」

 桃介「無論、もうかった」

 「どうして? 買い上げていったんでしょう」

 「途中で売り逃げた。君はそうしなかったと手紙に書いていたね」

 「だって、有望だってあなたがいったし。おかげで60万円、水の泡だ」

 「バカだな。株はいつか下がるものだ。いつまでもにぎっておればいいなんてものじゃない」

 松永の独り言です。

 「(せっかくいっしょに買いはじめたんだ、売るときになぜ声をかけてくれなかったのか)」

 「(そんな他力本願でどうする。相場は自分の判断でやるものだ。判断力もないくせに、相場に手を出すのがまちがいだ!)」

 桃介は後に述べました。

 「人間の成功に、運、鈍、根という三つの資格が数えられる。その中でも、 事業経営に一番必要なものは根すなわち執着である。その反対に、株式相場に執着はもっとも禁物だ。いつでも見切りよく転換することを心がけて、一度に全部をすくいとることをしてはいけない。 シナの五祖禅師が『福不可受尽』といったのはこのことで、福をあまして八分に甘んじ、いさぎよく見切るところに転換の妙がある」

■桃介の資産運用論

 「神武天皇即位の年から今日に至るまで2589年間、わずか1厘の年5朱の複利計算は、兆の兆倍のそのまた3134万8276兆倍と云う、ほとんど数え切れぬ金高になる。100円の資本で、一時は1000円、2000円と儲けても、その次に1000円、2000円の損をすれば何もならぬ。それよりも、5朱か6朱の薄利でも、必ず一定の 利息の生むものに放資し、しばらくして利に利を積めば、苦労せずに自然に金持ちに なれるのだ。さらば、サラリーマンでも、小商人でも、倹約して暮らしてその余金をもって株なり、土地なりに放資、その利に利を積んで富を作る道を忘れてはならぬ。だが、将来も株式や土地に放資して、これまで通りの利殖をあげ得るや否やは、大いに疑問だ。さりとて、公債社債も感心しない。私はむしろ読者諸君に、今後いかにすれば有利に積利し得るかを聞きたい。」

 株式だけでもダメ、不動産だけでもダメ、時流にあった最も有利な投資を選択しなさいと説いています。

    『富をなす要素は利に利を積むにあり』 福沢桃介

 福沢諭吉は独立独歩の三助事業論者ですが、株嫌いでした。諭吉の自主独立精神を広く解釈した桃介は、お金儲けとして株式を採用しています。そして経済的自由人であるべきだと説きます。今風で言えば「金持ち父さん」といえるでしょう。福沢桃介こそ、わが国に簿記や株式が導入されてまもない明治時代で経済的自由人をめざし、そして夢を叶えた「金持ち父さん」かもしれません。

 株50円ショップより抜粋

------------------------------------------------------------------------------------------

 相場やるには古今東西の歴史を読め

 相場とは戦いである。戦いであれば戦術、戦略が必要で、

世界中の古今の戦いを見れば、成功した側から学ぶことが出来る。

------------------------------------------------------------------------------------------

 桃介の「麦酒泡沫論」

 前回、桃介が「平静の時は投機の時期ではない」と書いたことを紹介しました。その理由及び投機家が乗ずべき時期に関連して、桃介はかの有名な「麦酒泡沫論」を述べます。100年前に書かれたこの桃介の「麦酒泡沫論=株式投機の要諦」は今も実に新鮮です。

 「平静の時代に於いては、放資(インベストメント、現代風に言えば投資)として株を買うに可なれども、投機(スペキュレーション)として株を買うは断じて不可なり。何となれば平静の時代には相場の変動少なく、上下動揺の値幅狭く、投機者は長年月間に辛抱し切れずして、未だ何らの目的を達せざるに、早く既に自ら疲るるに至るべし。」

 平静の時代は株価の変動が小さいので投機妙味が少ない、と言うのです。では、投機妙味のある時期とその投機妙味の本質は何なのか?それは「麦酒泡沫」のような状態が株価に生じる時のその「泡沫」だ、と桃介は言います。

 「例えばコップに麦酒を注ぐの場合に於いて、初め黄褐色の液がコップの底に溜まる間は、別に見るべき所なきもの、是れ平静時代に喩うべし。」

 しかし、と桃介は続けます。ビールをしばらく注ぐうちに突然、

 「液体の沸騰を起こさんか、些少の量も、忽ちにして多大の泡沫沸騰となるべし。株式市場の沸騰も、其形成はこの状勢に彷彿として、少量の液体が多大の泡沫に沸騰するが如く、其上騰の値幅も忽ちにして絶大なるものあるに至らん。左れば投機を試みんと欲する者は、正に此の泡沫沸騰の起る時を見済まして、一躍其機に乗ぜざる可らず。」

 注ぐビールが株式市場における「出来高、あるいは、市場に流入する資金」の例えであることは明白です。「麦酒泡沫」は今風に言えば「株価バブル」です。投機妙味の最大なるものは「株価バブル」にある。株の儲けはバブルによるものが絶大なのだから、投機家は「株価バブル」に乗れ、と桃介は言っているのです。

 株価のバブルは、ある時点まで行くと「わずかな量で大量の泡沫が生じる」麦酒泡沫と同じこと、株価のバブルはある時点を過ぎるとわずかな買いが追加されるだけで大幅な株価上昇をもたらす、このことに特に注目すべし、というのが桃介の「麦酒泡沫論」の趣旨です。

意識する意識しないにかかわらず、株式を売買するひとは株式売買において「投資価値」と「投機妙味」を考えて行動しているはずです。とくに個人投資家・投機家は、多くの場合「投資価値」よりも「投機妙味」に重点を置いて株式相場を見ているだろうと思います。桃介の「麦酒泡沫論」に共感するひとは多いはずです。

 福沢桃介著「欧米株式活歴史」を現代の目で読む

------------------------------------------------------------------------------------------

 晩年の桃介氏(投資眼)

 さて、桃介は昭和十三年(一九三八)に亡くなっているが、彼の実妹にして歌人である杉浦翠は、桃介の晩年に関して次のように回想している。

「昭和十三年、死の直後、近親が集まって桃介のことを話し合ったとき、十年前から看護婦として接近していた浜浦やえ子が狠尭疝佑里っしゃることは何でも当っているが、ひとつ当たらないことがありました。それは、ヒットラーはいまに失敗するよ、とおっしゃるのですが、こればかりは当たらなかった瓩箸い辰燭、実にその当時のヒットラーの勢いは大したもので、落日の面影などは露ほどもなかったのである。また、私に桃介がいったのは、いまにソ連とアメリカが手をつないで、日本を攻めてくるよ、といった。軍部の奴らは分からない奴らばかりで、日本を滅ぼすのは軍部だといっていた。そのころ軍部の赫々たる報道を新聞で信じきっている私は、桃介はもうろくしていると思っていた。」

 希代の英傑の「先読み」は晩年まで健在だったようである。

------------------------------------------------------------------------------------------

 桃介氏の肩書

「破天荒の人物」という者はいるものであるが、福沢桃介(一八六八〜一九三八)は間違いなくその中の一人に数え上げられるであろう。 桃介の七十年にわたる生涯の中で、彼につけられた代名詞はおよそ次のようなものである。

 「神童」「美少年」「元祖慶応ボーイ」「福沢諭吉の女婿」「天馬空を行く男」 「兜町の麒麟児」「株成金」「悪辣な相場師」 「希代の遊蕩児」「川上貞奴のパトロン」「奔放な事業家」「天才的経営者」「実業界の怪物」「財界の鬼才」「水力発電王」「日本の電力王」。

 さらに経営者としての主な肩書は次のようになる。

「王子製紙取締役」「日清紡績専務取締役」「福博電気軌道(後の西日本鉄道)創立社長」「日本瓦斯創立社長」「四国水力電気社長」「佐世保電燈創立社長」「愛知電気鉄道社長」「名古屋電燈社長」「電気製鋼社長」「木曾電気製鉄社長」「矢作水力電気相談役」「東海電気鉄道(後の名古屋鉄道)創立社長」「大阪送電創立社長」「大同電力社長」「大同製鋼(後の大同特殊鋼)創立社長」「関西電気社長」「北恵那鉄道創立社長」「豊国セメント創立社長」「天竜川電気創立社長」。

参考文献:『電力王 福沢桃介』(堀和久、ぱる出版)、『福沢山脈 下』(小島直記、河出文庫)、『まかり通る(上)』(小島直記、新潮文庫) 慶應義塾大学公認独立団体 慶應キャンパス新聞会 2004年12月10日号

------------------------------------------------------------------------------------------

 実業家〜電力王としての桃介氏

年号
福沢桃介年譜


 今から約70年前、木曽川の流れを止め“暴れ川”の流れをみごとに治めた人物がいました。
大同電力(関西電力の前身)の社長として木曽川を開発した福沢桃介です。全国一円の電力網をはりめぐらした今日の電力産業の基盤が築かれるのは、大正末期のこと。桃介は電源開発とともに、長距離送電体制を築くのにも業績を残しています。明治半ばに産声をあげた、わが国の電力産業は、このころには電灯だけでなく、動力源として多くの産業の需要にこたえられるまでに成長していました。近代産業の創出を念頭としていた桃介の雄大な構想が現実のものとなったのです。


明治元年

武蔵国横見郡荒子村(現在の埼玉県比企郡吉見町荒子)において父岩崎紀一、
-1868
母サダの次男として出生。
明治7年

川越町の小学校に入学
明治13年

川越町の中学校に入学
明治16年

同地出身の慶応義塾教師真野観我氏に依頼し同塾へ入学
明治19年

福沢家へ養子を承諾
明治20年

福沢家へ入籍
リオデジャネイロ号にて米国へ渡航
ニューヨーク州イーストマン商業学校入学、8月同校卒業(5ケ月間)
福沢家次男捨次郎にポーキプシーにて面会
父紀一、川越町にて、没す。48歳
明治21年

ペンシルバニア鉄道会社の見習を始める
母サダ、川越町にて、没す。48歳
明治22年
岩崎桃介帰朝、福沢房と結婚
北海道炭礦鉄道株式会社に就職。東京から北海道へ転籍
明治23年
北海道炭礦鉄道 東京支社開設。買炭係支配人として東京転任
明治27年
横浜にて石炭貨物受渡中、喀血。
肺結核療養のため養生園へ入院、在院3ケ月の後、大磯に転地
大磯に転地中、貯金3,000円の内いくらかを資本に株式相場を始める。
明治31年

王子製紙株式会社取締役就任
利根川水力電気株式会社発起人総代に選任
明治32年

京橋三十間堀で丸三商会経営
利根川に水力電気出願。(現在の東京電力佐久発電所)
明治33年

肺結核再発京都で入院
大森八景園下の一軒屋の貸家入居
丸三商会倒産
王子製紙株式会社取締役辞任
明治34年

福沢諭吉先生没す。68歳
北海道炭礪鉄道会社に再入社
明治42年

名古屋電燈株主名簿に初登録
明治43年

名古屋電燈定時株主総会において取締役に当選
木曽川水力の開発調査に着手
八百津発電所を起す
明治45年

八百津発電所運転開始(10,000kw)
愛知電気鉄道株式会社取締役社長就任
名古屋電燈社長就任
大正6年

賤母発電所起工
大正7年

大桑発電所工事開始
大正8年

賤母発電所(12,600kw)竣工
大正9年
木曽電気興業、日本水力、大阪送電を合併して大同電力株式会社と改称、取締役社長就任
大正10年

木曽川須原発電所・大阪送電線路着工
大井ダム発電所起工
読書発電所起工
大正11年

桃山発電所起工
大正12年

桃山発電所(23,100kw)竣工
読書発電所(40,700kw)竣工
大正13年

落合発電所起工
大同電力外債募集のため、アメリカ合衆国へ出張
大井発電所(42,900kw)竣工
大正15年

帝国劇場株式会社取締役会長就任
落合発電所(14,700kw)竣工
昭和2年
勅撰議員を辞退
昭和3年

勲三等旭日中綬章うける
事業界から引退を声明
昭和12年

渋谷の本邸で2月15日永眠
多摩墓地に埋葬 70歳

年譜 関西電力より抜粋

------------------------------------------------------------------------------------------

 桃介氏の恋愛感

・「日本の近代化遺産―新しい文化財と地域の活性化―」 伊東孝 岩波新書(新赤版)695 2000年  検〆に生きる産業遺産/4 発電所のデザイン博覧会と稼働する重要文化財―木曽川・発電所群

 桃介と貞奴

 福沢桃介の旧姓は岩崎桃介。福沢諭吉の次女・ふさの入り婿となって福沢姓を名乗る。諭吉の援助でアメリカに留学。1889年(明治22)に帰国して北海道炭礦鉄道に入社、サラリーマン生活を送ることになった。しかし六年後、肺結核にかかり退社。ふつうはここで意気消沈するところだが、桃介は独立した経済人への道を模索した。入院中におぼえたのが相場である。百発百中の株で財を貯え、電力事業に乗り出した。

 桃介の名をさらに有名にしたのは、川上貞奴とのロマンスである。 二人のロマンスは、1985年にNHKで『春の波濤』としてドラマ化されたので、ご存じの方も多いと思う。桃介から「さアだ」と呼ばれた貞奴は、わが国の女優第一号として知られ、国際的には、爛泪瀬燹Ε汽瀬筌奪貝瓩箸靴討修量召鮹擇擦拭1871年(明治4)生まれ、美貌・才気・遊芸に秀でた名妓となり、最初のパトロンが伊藤博文であった。川上音二郎と結婚し、新派演劇の発展に尽力した。音二郎の死後六年目に舞台をやめ、以後、福沢桃介の行くところ、影が形に添うように貞の姿があった。 桃介橋の袂にある天白公園の敷地には、桃介が発電所の現場監督のために建てた山荘が残されている。1922年(大正11)の建造である。もとは二階建てだったが、戦後火災にあって平屋となり、現在は二階建てに復元され、桃介記念館として利用されている。

                  桃介と貞奴


------------------------------------------------------------------------------------------

・「女優貞奴」 山口玲子 朝日文庫 1993年

 伊藤博文はじめ維新の元勲達が贔屓にした芸者・奴。のちには壮士演劇の旗手・川上音二郎と結婚し、欧米興行の際、ジイドやピカソの絶賛を浴びた女優・貞奴。音二郎没後、福沢諭吉の女婿で《初恋の人》桃介との同棲生活に入る ――ジャパニーズ・アクトレス川上貞奴の波瀾の生涯。(カバーのコピー)

 第一章 酒の肴の物語/十五の春

  (前略)

 貞は乗馬を習うために本所緑町にある草刈庄五郎の道場へ通い始めた。天保二年生まれの庄五郎は五十歳、八条流馬術師範で鹿島流馬術の達人でもあった。 この道場で貞が習ったのは古風な武芸に基づく馬術だった。馬乗袴に白鉢巻のいでたちで乗ったのだろう。少女の躰つきは一年で見違えるように変る時期がある。小姓のような装(なり)でも、明らかに女とわかる貞の乗馬姿が隅田川べりを駆けて人目に立った。稽古を重ねた貞は遠乗りができるようになり、その遠乗りも自信がつくにつれて次第に距離がのびる。

 ある日貞は、一人で成田山まで足をのばした。本所から千葉の成田までは五十キロ以上ある。帰途、船橋を過ぎた辺りで日が昏れ、野犬の群に襲われた。 絶壁に追い詰められ、馬は前脚を空に足掻いていななく。貞は振り落とされまいとしがみつくのがせいいっぱいで、手にした鞭で犬を追い払う余裕はなかった。 どれほどこらえていたのか、吠えたてる犬の声が途切れて、悲鳴に変わり、その声も遠ざかっていった。振り向くと、人影が見えた。人っ子一人いなかったのに、忽然と現れた黒いシルエットが不動明王さながらに立っていた。まるで、先刻お詣りしてきたばかりのお不動様が本堂を抜け出て、助けに来てくれたかのようだった。貞は雷に打たれたように身が震えた。

 人影が近づいて、貞に怪我はないかときいた。手に持っていたのは不動尊の右手にある降魔(ごうま)の剣ではなくて、棒切れである。拾った棒切れと小石で野犬を退散させてくれた書生風の身なりの青年は、慶応義塾の岩崎桃介(ももすけ)と名乗った。動顛して礼も満足に言えなかった貞は、翌日菓子折りを持って、慶応の塾舎を訪ねた。三田台を散歩しながら、貞は桃介の母もさだという名前だときかされた。貞が生家はとっくに没落したと言うと、 桃介は自分だって水呑み百姓の子だと笑った。 桃介は水呑み百姓の子ではなかったが、母のさだが埼玉の旧家から分家して養子を迎えたあと、事業に失敗したので、学資も乏しかった。桃介はその名の通り、桃太郎のようにつやつやとして、意気軒昂な若者だった。

 その後二人が親しく行き来するようになって、一年を過ぎた頃、桃介に縁談が起きた。「天は人の上に人を造らず」と『学問のすゝめ』を著し、学生の尊敬を集める慶応義塾の創立者福沢諭吉に認められて、桃介はアメリカへ留学し、帰朝の暁には諭吉の二女・房と結婚することになった。諭吉は明治十八年に『今日新聞』が試みた人気投票で「現今日本十傑」の第一位に選ばれている。二位は福地桜痴(おうち)、三位が伊藤博文だった。 桃介の渡米に先立って、結納がとり交わされた。

「大意(婚姻に関する覚書・結納)」

一、桃介夫婦の間は男尊女卑の旧弊を払い、貴婦人紳士の資格を維持し、相互に礼を尽して、以て一家の美を致すのみならず、広く世間の模範たるよう致す可き事。

  明治十九年正月二十八日                        諭吉記

 全八項から成る覚書の終項の文面である。披露宴には、岩崎家の本家当主も出席した。 埼玉の田舎から出て来た岩崎老人は、諭吉に食べ方を教わって、初めて洋食というもの を口にしたという。その孫娘・富司(とみじ)が三十余年後に、貞の養女になって、川上家を嗣ぐことになる。しかしそれはまだ誰も予測し得ない先の話だった。 明治十九年に貞は十五歳、桃介は十八歳、少女と少年のほのかな初恋はあえなく押しやられた。

 「お互いは道は違っても、いつか立派に成功して、またお目にかかりましょう」

 貞は別れの言葉を告げて、桃介の旅立ちを見送った。 偉大なる福沢諭吉の娘と、雛奴では勝負にもならない。貞は涙を見せなかった。袂を噛んでうちしおれるのは貞の性格ではない。何が「天は人の上に人を造らず」かと、小石を蹴っとばした。 貞は口惜しさに切りきざまれる心を乗馬にふり向け、あるいは柔道、玉突き、花札、コップ酒と手当たり次第に打ちこんだ。どれも並々ならず腕を上げた。汗を流せば腹ふくるる思いもやり過せたし、何よりも自分の悲しみの深さが貞には まだわかっていなかった。ただ、むやみと猛々しくなり、「女西郷」と綽名された。 もともと穏和な質(たち)ではなかったが、とみに荒っぽくなった変わり方を、 養母の可免だけは手負いの獅子のそれと知っていた。可免としても貞に劣らず悔しく腹立たしい。怒りのエネルギーは、貞が一本の芸者になる披露目の準備に注ぎこまれた。


※この考察記事はアメブロ本店からの転記記事です。
http://ameblo.jp/tukumo-k-type/entry-10004382569.html

| 考察/ブログ | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0)
スポンサーサイト
| - | 00:00 | - | -
コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://tukumo.jugem.jp/trackback/16
トラックバック
CALENDAR
S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< December 2017 >>
Google
LINKS
PROFILE
CATEGORIES
ARCHIVES
RECOMMEND
投資苑2 トレーディングルームにようこそ
投資苑2 トレーディングルームにようこそ (JUGEMレビュー »)
アレキサンダー・エルダー, 長尾 慎太郎, 山中 和彦
RECOMMEND
投資苑 − 心理・戦略・資金管理
投資苑 − 心理・戦略・資金管理 (JUGEMレビュー »)
アレキサンダー エルダー, 福井  強, Dr. Alexander Elder
RECOMMEND
RECOMMEND
億万長者をめざすバフェットの銘柄選択術
億万長者をめざすバフェットの銘柄選択術 (JUGEMレビュー »)
メアリー バフェット, デビッド クラーク, Mary Buffett, David Clark, 井手 正介, 中熊 靖和
SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK