九十九研究所@企業コレクション〜じゅげむ本店

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天と地と〜休暇中の思案/川中島の戦いを巡って
 天と地と 上
 海音寺潮五郎

 最近読んだ本で非常に興味深く、読みごたえのある作品であったのが、海音寺
 潮五郎氏の作品である。 共通する歴史認識は、通り一辺倒で退屈するが、海
 音寺ワールドが随所に散りばめられていて非常に読ませる内容となっている。


すでに映画〜「天と地と」で実写化されているが、原作の方が私の個人的な見解であるが、優れていると思う。もっとも映画と原作本を比較するのもどうかと思うが、よりエンターテイメントに振幅を振った角川氏もそれはそれで楽しめるのであるが。私はよく業務上で、新たな考えや事業・人事考察する際に歴史を手がかりにヒントや拠所としているときがあるのだが、先人の知恵と言うか、優れた先人がこの時代の問題や難局に遭遇した場合どうするであろうかと推測しながら、行動基準に当てはめることもあり、川中島に思いを巡らし、休暇先で、のんびり本を読みながら、しばしの歴史ロマンに引き込まれているところである。さて、

戦術的には上杉軍の奇襲と武田軍の挟撃はいずれも成功している。しかし、本文冒頭にもあるように、戦の後も北信濃の支配権は武田が握っていたため、戦略的には武田の勝ちである。

と記しているように、互いに互角の戦であったのは、事実であるよう
であるが、 ここまで何ゆえ北信濃半国に長い年月を費やしたのか
が、 一番の謎になるのであるが、やはり"維持・意地"であろうと私
は考えている。 つまりは、国主としての組織・結束力/領国支配力
の維持、より"人としての意地"の意味合いが色濃く現れた戦いであったように思えてならないのであるが。

互いに引き際、落としどころを模索していたに違いないと思う。武田は上洛が急務であり、 信濃に常駐するのはあまり意味がなく、上
杉も信濃に出張れば北条との上野/下野/常陸の所領権獲得に支障をきたす。 しかし、 お互い名門であり、敵に背を向けて撤退は
ありえないと考えていたであろう。同じ引くのであれば、 一度は合い見え、虚撃をつき叩き深追いせずに迅速に引き揚げるのが最上の策であるのは、お互い一致した内容であったであろうかと思う。

偶発的とはいえ濃霧が生んだ、日本史上類をみない大白兵戦を展開した内容はご存知の通りであるが、信玄にしては、思わしくない結果であったであろうと思うし、謙信は信玄を追い詰める最大の機会を逃してしまったのであるから、痛みわけになってしまうが、この戦果こそが、両者にとって面目の立つ結果(国力や犠牲や損傷から見て)であると私は考えている。

私自身も仕事において最適解を導く為に様々な調整役を最近では請け負っている。自身における業務と、休み明けから訪れるであろう、様々な課題に思いを巡らし戦略を練り上げ個々の戦術の構築を思案中である。大局観でものを見る考えに立つと近視観的な視点でものをみる人材とぶつかる傾向もあり、つねに懐柔しながら、この難局(川中島)を乗り切れればと考えている。

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 川中島の戦い

 川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、戦国時
 代、甲斐国(山梨県)の戦国大名である武田信玄と越
 後国(新潟県)の上杉謙信が、千曲川と犀川とが合流
 する三角地帯・川中島(現在の長野県長野市南郊)
 で行われた北信濃を巡る合戦の総称。川中島の合戦
 ともいう。

 主な戦闘は天文22年(1553年)・天文24年(1555年)・
 弘治3年(1557年)・永禄4年(1561年)・永禄7年(15
 64年)の5回で計12年余りに及び、単に「川中島の戦
 い」と言った場合には、一番の激戦であった永禄4年
 9月10日の戦いを指すこともある。

 戦いの目的は、上杉軍が北信濃の奪回、武田軍がその阻止であった。結果として、川中島の戦い以後も武田信玄が北信濃を支配し続けたため、戦略的には武田信玄の勝利(上杉軍は北信濃を少しも奪うことができていない)であるといえる。

永禄4年9月10日 第4次〜

永禄4年(1561年)9月9日深夜から10日昼にかけて川中島で行われた、武田信玄と上杉謙信(当時は輝虎)の4回目の合戦。第1次〜第5次の中で唯一大規模な戦となり、多くの死傷者を出した。

上杉謙信が川中島に出現したという知らせを受けた武田信玄は、8月16日に甲斐の武田館を進発した。上杉軍は、第1次〜第3次までと異なり、川中島の北に流れる犀川と南に流れる千曲川を渡り、川中島のすぐ南に位置する妻女山に陣取って、川中島東にある海津城と相対した。そのため、武田軍は8月24日に川中島西方の茶臼山に陣取って上杉軍を牽制した。これが、互いに退路を塞ぐ形になり、そのまま睨み合いが続いた。武田軍は、この布陣による戦線硬直を避けるためか、8月29日に川中島の中心に当たる八幡原を横断して海津城に入城した。このとき、妻女山の上杉軍は約1万、海津城の武田軍は約2万で、兵力は武田軍優勢であった。

睨み合いによる士気の低下を恐れた武田軍は、9月9日深夜に軍を動かした。 『甲陽軍鑑』では、山本勘助の「啄木鳥の戦法」を採用して動いたとされる。 これにより、武田信玄は本隊約8千を率いて八幡原に、 また高坂昌信・馬場信春らが率いる別働隊約1万2千を妻女山に向かわせ、上杉軍を八幡原に追い出して挟撃しようとした。しかし、上杉謙信はこの動きを察知し、10日払暁(午前6時頃と伝えられている)の霧が立ち込める中、全軍が妻女山を抜け出し八幡原に突撃した。このため、武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣を敷いて応戦したものの、武田信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定らが討死するなど、不利な形勢となった。しかし一方で、武田軍の別働隊は上杉軍の殿を務めていた甘糟隊を蹴散らし、昼前(午前10時〜12時)には八幡原に到着した。予定よりかなり遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃になお耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。上杉軍が、犀川を渡河し善光寺に退いたことで戦闘は終わった。上杉軍は川中島北の善光寺に配置していた約3千の部隊に合流して越後に引き上げた。


 この戦による死者は、一説によれば
 上杉軍が3千強、武田軍が4千強であ
 り、互いに多数の死者を出した激戦と
 なった。勝ちどきは双方からあがった
 といわれている。 また、事実であると
 確認されてはいないが、 この戦では
 上杉謙信と武田信玄が一騎打ち(正
 確には打ち合い。謙信が騎乗しており
 、信玄は床几に座っていたとされるた
 め)したと言われており、その場面が
 歴史小説やドラマ等にしばしば登場
している。甲陽軍艦はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としているが、戦術的には上杉軍の奇襲と武田軍の挟撃はいずれも成功している。しかし、本文冒頭にもあるように、戦の後も北信濃の支配権は武田が握っていたため、戦略的には武田の勝ちである。

ただし、長期的にみれば、信繁の戦死がその後の武田家滅亡への第一歩となった事も否めない。信玄死後、後継者の武田勝頼が実力ある老臣達を掌握できずに武田家滅亡へ追い込まれた事を考えれば、人望、実力共にあり、信玄からも家臣からも認められていた信繁が存命だったら、義信追放事件も含め、史実とは違った展開もありえただろう。上杉家が謙信死後も、度重なる滅亡の危機を乗り切って米沢藩主として名声を残しただけに、戦略的な勝ちを得るには大き過ぎる代償だったとも言える。
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■ 記事参照作品

      天と地と 天の盤
      天と地と 天の盤

■ 記事参照元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
新潟県栃尾市公式ホームページ〜川中島の戦いより
〜信玄・勝頼 ゆかりの地〜川中島の戦いより
越後の虎 上杉謙信〜川中島の戦いより
上記写真・天と地と〜武田信玄役/グランパパプロダクション 津川雅彦氏
上記写真・天と地と〜上杉謙信役/Office Takaオフィス・タカ 榎木孝明氏

■ 記事関連情報

大河ドラマ「風林火山」出演者発表!
川中島の戦い再現 フォトニュース YOMIURI ONLINE(読売新聞)
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| 考察/ブログ | 20:00 | comments(14) | trackbacks(10)
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コメント
TBありがとうございます。興味深く記事、読ませていただきました。

考察的な書き方で「なるほど〜」と感心しきり。参考文献もありがたく拝見しました。

連休、ゆっくり休養なさってください。
| どんぶらこっこ | 2006/05/04 9:14 PM |
TB頂いたのでこちらを拝見させていただきました。
私は海音寺潮五郎さんのファンで、その著作を熱心に読んでいますが、「武将列伝」の"武田信玄"の個所に、この川中島の戦い触れて、
 戦争はスポーツではない。事後の勝敗の判定などいらぬことだ。
と書かれています。
海音寺さんは謙信びいきで、世間一般には信玄有利の意見が多いので、悔し紛れにこんなことを書いたのではとも思いますね。
| モモタ | 2006/05/04 9:46 PM |
TBありがとうございます。

謙信は神がかり的怪しい人物の印象がありますが、上杉家は忠臣蔵にも登場するし、上杉鷹山で残ったみたいですね。

武田家は滅亡してしまいましたが、信玄は人気のある武将のひとりとして残ったのではないでしょうか。

記事はとても楽しめました。
ありがとうございました。


| マーチ | 2006/05/04 10:25 PM |
 私は、どちらかと言うと信玄の方が勝利していると思います。
 川中島の戦いは、九十九さんのおっしゃる通りで、まさに人(武士)としての意地を突き通した戦であると思います。
 海音寺さんの作品は、モモタさんのおっしゃる通り謙信びいきで、歴史を一方面しか見られていないむきもあり、少し中立性にかけるところがありますが、独自の作風は司馬さんも認めているところですし、作家としては、一流であったと思っています。
| kirinji | 2006/05/04 10:28 PM |
いつもながら鋭い考察ですねぇ。
参考になりました〜。
原作の「天と地と」と「風林火山」買って読んでみます。
今度読み比べた感想を教えますね。
| sayaka | 2006/05/05 12:18 AM |
jugemさん

TB有難うございます。
「川中島の戦い」の記事を読んで、壮大な歴史ロマンの一端を垣間見ました。私の先祖は武田側の屯田兵としてその戦場に参加していたのではないかと想像します。
若い頃、新田次郎の小説「武田晴信の生涯」(?)を読んだ覚えがありますが、題名は忘れました。今度、海音寺潮五郎の本も読んでみたいと思います。
| konan | 2006/05/05 11:56 AM |
TBありがとうございました。
NHKの大河ドラマ「天と地と」がすごく印象に残っています。
角川「天と地と」は当初渡辺謙さんの謙信ということで凄く楽しみにしていたのですが、御病気により降板。ガッカリした思い出があります。あの映画は「天と地と」に名を借りた別物だと認識しております(笑)。
謙信というより長尾景虎としての『天と地と』海音寺潮五郎著は魅力的な作品でした。
| shinobirika | 2006/05/05 1:03 PM |
大変興味深くエントリーを読ませて頂きました。
休暇中だそうで私は休日返上でPCの前で資料作成です(泣)

休暇先でのよもや話でも聞かせて頂ければ幸いです。
| 翔太☆ | 2006/05/05 11:09 PM |
トラックバックどうもありがとうございました。これからも宜しくお願いします。
| ふくちゃまん | 2006/05/06 10:32 AM |
トラックバック有り難うございました。壮大な歴史とロマンの中に自分がいる時間がすばらしいですね。これからも宜しくお願いします。
| ポテゴロ | 2006/05/06 11:48 PM |
はじめまして。
私も海音寺ファンの一人です。

いくつかのエントリーを読みましたが、すごいまとめ力ですね。私もこのエントリーを読んでいて、歴史ロマンに惹きこまれました。
| ようちゃん | 2006/05/07 1:03 AM |
今回も素晴らしいエントリー感動しました。
休暇前の飲み会も名幹事として辣腕を振るわれ大盛況でした。感謝感謝です(^^)//゛゛゛パチパチパチ

相談にものって頂き、非常にいいアドバイスも頂いた事をあわせてお礼を言わせてください。

明日からまた仕事ですね。
お互い頑張りましょう。
| kyoko | 2006/05/07 9:24 AM |
はじめして&TBありがとうございます。
やっぱり戦国時代ですよねぇ!では、では…
| hiro | 2006/05/07 3:51 PM |
先日はお世話になりました。
いや記事を拝見させて頂き戦国ロマンに浸りました。
中学生時代に読んだ"武田信玄"をもう一度引っ張り出して読もうと思いました!

| こうじ | 2006/05/10 12:31 AM |
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